適当人生

田舎でのんびりやっとります。

結構きつい我が人生

年末から失業保険で残ったなけなしの10万円でオンラインカジノで勝負をした。

運よく最後の一万円で40万円まで増え次には100万円の大台に乗った。

 

実際に予想だにしない金を得てしまった感覚は蒙昧で、何に使うか考えるだけで疲れてしまった。年末年始も案の定孤独に過ごすだけなので、孤独=暇という事になり。

結局のこった100万のうち70万をスってしまう。

 

手元には身の丈にあった金額が残るということはそういう事なんだろうと妙に納得がいった。

 

外国に行き英語を覚える。

ニューヨークに行きピカソアビニヨンの娘たちを観に行く。

と蒙昧な頭で思いついた象徴的目標といった所を打ち立てはしたが、結局の所どうにも今の自分には興味が維持できなかった。

そういった資本主義的感覚を金を手にして初めて実感できたことは収穫だ。

 

暇が過ぎるので最近はamazonプライムで欧米映画をよく見るが、そこで感じた違和感が自分の日本人の情緒に対する答えっだったのかと今は感じる。

 

欧米特有の物質的な向上心という物が画面全体に溢れているあの感覚。

どうしてそこまで自身の文化や因襲について懐疑性を持てなくなるのだろう、そういった妄信をとても強く私は感じてしまうのである。

 

つまるところ文化にいかに感応して生きるかが人としての命題であるのだと思う。

 

これまでの自分は人の生み出したものに感応するクセのようなものがあったが、現在ではいかに自分に対峙するかが重要であるのだなと。

 

誰かが作った道の上での評価はその時代それっきりになってしまうのだという事。

今の時代に迎合すれば快適なのはわかるが、人のスペックを生かしきれてないという答えが見える。

 

もっと人間の黎明を感じたいのだなと。

 

しかしながらこの年末年始はとても居心地の悪いものだ。

このような生産型社会を信じるにしては長すぎる休暇だ、町が動いてないのである。

彼が日ごろ動くからこそ私の様な人間が過ごせるのであるのだから。

彼らも本心落ち着かない心持であろう。

明日からは自分の労働に従事して戴きたい。

 

腐るほど長い町の休止期間が終わり明日からやっと自分も動き出せる。