適当人生

田舎でのんびりやっとります。

遂に3月

ついに3月がやってきた。

 

この4ヶ月間は人生で最も心が揺さぶられることのない蒙昧な時間であった。

絵画の抽象性の中に身を投じることすらままならず、よくもまぁこんな中途半端な心持ちになれるものだと自分でも驚く。

ここまで来て自分の中に残っているものがあるとすればそれは「美」への郷愁だけである。

生活的なものに関心はなく経験的なものは一通りすんだ気でいる。

最近ぼんやり考えるのが、いっそ自分の中に宗教・もしくは社会を構築すれば自ずと目標という答えが現れるのではないかと、その中で生きればある抑揚も生まれよう。

 

この生活をしていて気づいたのは映画イントゥーザワイルドの最後の一文であった事に酷似してゆく。

人間はそもそも社会動物であって外的要因がなければ存在しがたい。

 

「誰かが認識することで、その存在が確定される」とノエインのトビくんが言って居たように。

 

現在の自分は社会的に存在していない事になるのだろう。

なぜなら私はこの社会を真っ向から否定しているのだから当然の報いであろう。

それにおいての対案が弱い・確定しないからの現状である。

ならばやはり脆弱で拙くてもいいから自分で社会的・もしくは宗教的な原理を見出しその中で生きなければならないのではないか。

 

集中が切れたので、今日はここまで